三大学OBジョイントコンサート

三澤洋史 

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ぐちゃぐちゃだったのが少し片付いた我が家
 この4月から孫娘の杏樹が中学生になるというので、それまで僕がひとりで使っていた(板の間なのではっきりは分からないが)二階の4畳半くらいの部屋を、杏樹が独り占めすることになった。
 彼女は、新しく白い机と白いベッドを購入し、素敵な部屋にしたい一心で、(感心なことに)茶色だった本棚のみならず、壁や天井まで白いペンキを塗って、真っ白な素晴らしい部屋に変貌させた!よくやった!

 一方、僕のパソコンやプリンタ、電話などを乗せた大きなテーブルは、隣の6畳くらいの部屋に移した。それまでは、この部屋で杏樹は母親の志保と寝ていたのだ。茶色の机はあったが、小学校の宿題くらいではほとんど使うことはなかった。でも中学生になったら新しい白い机は使うのだろうから、茶色の机はこの部屋に残してある。
 僕は、今は、夜中まで仕事することはほとんどないので、志保をそのままこの部屋で寝させることに賛成した。それなので、縦長の部屋の窓際半分に、テーブルや本棚などをまとめて僕の書斎とし、反対側で志保は寝る。
 結果的に、一番チビの杏樹が一番良い思いをしているなあ!まあ、志保には階下にピアノの部屋があるから、そこが昼の間は彼女の根拠地となっているし、僕はピアニストではないので、デスクの反対側にある電子キーボードで充分だ。

 それだけの移動なのであるが、いざ“プチ引っ越し”を行ってみたら、まず本棚の移動だけで大変な騒ぎとなった。一度中の本を全部出さないと移動できないじゃない。そうするとね、よく見てみたら、かつては使っていたが、今ではもう要らないんじゃね?と思われる本が沢山あって、それを選別し、かなりの本をブックオフに持っていったり、ボロボロの本は捨てたりの作業に、思いの外時間がかかった。
 また、同じくらい大変なことは、
「あ、この本、こんな所にあった!」
と発見して、気が付いてみたら読みふけって時間を無駄に使ったりした。

 本棚だけでなく、部屋のレイアウトを変えるにあたって、荷物を引っ張り出してみたりしている内に、家の中がグチャグチャになってきた。それで、この原稿を書いている時点では、最高のグチャグチャ状態の時期は通り越したものの、まだまだ充分にグチャグチャが続いている“今日この頃”です!

エバハルトとの再会
 3月26日木曜日。約束の17時の10分前に新宿文化センターに着いたら、もう練習は終わっていて、エバハルトと奥さんのキャロリンは、一階ホールのソファに座って僕を待っていた。
 彼は、この時期になると毎年、東京の春音楽祭の合唱指揮者として来日していて、僕たちは必ず一緒にお茶を飲んだり食事をしたりしているのだ。来日してすぐに品川駅近辺で軽くお茶を飲んだが、今回は一緒にゆったりとお食事。

 これまで、フランス料理をはじめとして、いろんな所に連れて行ったけれど、昨年、東京文化会館の楽屋口で、彼の練習後の21時に待ち合わせて、いきあたりばったりに、上野の下町の一画にある、周り中から中が見渡せる魚料理主体の安っぽいお店に連れて行ったら、これまでの中で一番喜んでくれたので、今年は、それよりもちょっとだけ上品な炉端焼きの店を予約してみた。
 予約が17時30分からしかできなかったので、ホールでちょっとダベってから、新宿御苑の近くで評判のよさそうな「御苑 炉庵」というお店に向かった。新宿文化センターからだと、急ぎ足でも10分くらいかかる道のり。でも、多くのドイツ人がそうであるように、彼らは歩くことに何の抵抗も持たないどころか、かえって、
「適当におなかがすいていいね」
と、食事前のお散歩には肯定的。

 僕たちはカウンターを予約したが、炉端焼きというのは、あれだね。火がボワッと燃え上がってジュージューという感じではなくて、備長炭の炉の周りに串に刺した魚を立てて、時間かけて焼くので静かなんだね。だから上野の下町に比べて上品な雰囲気で、これはこれで会話も弾んで良かったです!食べ物はどれも美味しかったけれど、意外とアスパラ焼きや椎茸焼きとか、魚の中でも、するめイカ丸干しなどを、珍しさもあって、彼らは喜んで食べていたね。

 エバハルトは、65歳でハンブルク歌劇場を定年になったけれど、代わりの人が見つかるまで居てくださいと頼まれて最近まで働いていた。でも、70歳が近づいた今、いよいよリタイヤして、今はベルリンの自宅に住んでいる。庭の大きな素敵な邸宅だそうで、
「奥さん連れて遊びに来なよ。何人でも泊まれるよ!」
と言ってくれるけれど、なかなかねえ・・・僕も今は新国立劇場を離れて定収入がないから、時間があってもまとまったお金を作りにくい。一方、ドイツは年金がしっかりしているのでうらやましいねえ。国民年金では、どうにもなりませんねえ。宝くじでも買って、当てたら行こう!

 僕はビールの後、焼酎を頼んでロックでチビチビ飲んでいたが、彼らの興味はもっぱら日本酒で、一番甘口と一番辛口を一合ずつ頼んで、二人でシェアしながら、
「ん、ホントだ。こういう味を辛口っていうのか!」
「ん、これは確かに甘いわ!」
なんて、子供みたいにふたりではしゃいでいる。

 酔うにつれて、話はいろんなところに飛んで、僕も彼らの話す全ての単語を全て理解しているわけではないけれど、酔っ払ってくると、律儀に理解しようという態度もなくなって・・・でも、そっちの方が、ざっくりと言ってることが分かって、むこうも僕の文法上の誤りなんか全く気にしないから、何人(なにじん)と何人が会話しているのかも意識しないような状態になって、とどのつまり、またまたとっても仲良くなりました。

三大学OBジョイントコンサート
 3月28日土曜日の朝10時前。妻が車で送ってくれて、家から近い「府中の森芸術劇場どりーむホール」に行ってみたら、すでに北海道大学、東北大学、東京大学それぞれのOB男声合唱団のメンバーがステージ上に溢れていて、エール交換の並び方を決めている。
 僕もエール交換に参加したかったのだが、これはみんな現役時代からそれぞれ寝言でも歌ってしまうほど暗譜で歌っているので、僕の出る幕でもないと思い、その後の合同ステージからの参加に決めた。
 僕は、ステージの袖を通ってまず楽屋に行って荷物を置き、それから合同ステージの並びを決める時間になったので、僕もバス・パートに加わった。そうだ。この演奏会では、僕は3つの役で本番に参加する。まずは指揮者として。それからピアニストとして。そしてもうひとつの役としては、合唱団員のひとりとして合同合唱に参加して歌うことだったのだ。

 昨晩の、武蔵小杉駅近くの「中原市民館」2Fのホールいっぱいに響き渡った中で歌うのも気持ち良かったが、今日の「どりーむホール」はまた全然違う。中で音が満ち満ちるのではなく、ステージ上でのまとまった響きが客席に移って行くのが、まるで目に見えるようなのだ。しかも、指揮者としてそれを味わうのではなく、自分の出した声が、みんなと混じり合って客席の方に飛んで行くのは、いつもと全然違う感覚なのだね。

 落ち着いてよーく思いだしてみたら、もしかすると僕がこのように合唱団に交じって歌うのは、高崎高校合唱部現役以来初めてかも知れない!というのは、僕は勿論、最初は合唱を歌うことに惹かれて合唱部に入ったわけだけれど、2年生から学生指揮者を志願すると、自分で歌うよりも、むしろ団員に、普段の音取りから始まって練習をつける割合が多くなり、さらに音大に行って音楽家になることを志していたので、なおのこと自分の比重を指揮に多く費やしていった。
 OBになっても、結構足しげく合唱部に通い、定期演奏会でもOB指揮者として指揮し、しだいに歌うことから離れていったのだ。

 だから、こうして一合唱団員のひとりとして歌うことは、ある意味自分の合唱人生の原点に還ることであり、他の人たちと一緒になって、目の前に立っている北大や東北大の指揮者の注意を聞きながら、周りの人たちと、音程、リズムだけでなく、音量や音色に配慮しながらみんなと合わせて歌うことに、ワクワク、ゾクゾクするような“うずきの感覚”に捉われていた。

 さて、東大が提供した2曲の内、「東京キッド」においては、指揮を酒井雅弘さんに任せて、僕はピアノを弾いた。もともとは美空ひばりさんの歌で大ヒットした曲だけれど、青木肇さんの編曲では、原曲よりもっとジャズっぽい凝ったハーモニーとなっているので、僕もそれをいいことにさらに悪ノリして、間にアドリブをバンバン入れながら練習中から弾いていた。

 これも、別の意味で僕の原点である。というのは、僕は、今の妻のことで親に結婚を反対されていて、国立音楽大学声楽科は父親の仕送りで卒業したのだが、同時に大学4年生の途中から、立川に当時あったドイツ・レストラン「ダンケ」をはじめとして、次に新宿のビヤホール「ライオン」、それから新宿の中央公園の西側のニューシティー・ホテルのラウンジなどでピアニストのアルバイトを始め、自分の力で人生を切り開いていこうと決心した。
 それらの場所では、ピアノ・ソロの曲も弾いたが、歌手やアコーデオンや他の楽器奏者もいて、始まる前や休憩時間に控室で譜面を渡されると、テンポや曲想や繰り返し記号をチェックするのが精いっぱいで、そのままステージに出て行って、コードネームに従って演奏した。
 自分で言うのもナンだけど、僕のピアノは評判良くて、いろんなところに呼ばれたけれど、同時に僕自身もっと腕を上げようと欲が出て、元々ジャズが好きなこともあり、さらにジャズっぽい和音を研究し、いろいろ勉強した。
 それでかなりお金を貯めて、妻を連れて自費でベルリン芸術大学への留学を成し遂げたのである。父親とは後に和解し、結婚も正式に認めてもらえたが、僕のもうひとつの過去の顔に、ジャズ・ピアニストという面もあるのだ。

 そして、最後の顔は、勿論指揮者である。東大の提供した合同曲は高野喜久雄作詩、髙田三郎作曲の男声合唱組曲「水のいのち」より「海よ」。三大学OB合同合唱団に練習をつけて本番で指揮した。勿論、自分の本業であるし、一番しっくり来るわけであるが、同時に、
「自分が、もし合唱団の中にいて歌っていて、目の前に僕のような指揮者がいて、僕のように指導し、本番で振っていたならば、どのような印象を持つのだろうか?」
という合唱団員目線を感じながら指揮している自分がいた。これは自分にとって新しい感覚であった。で、自分としては、結構「痒い処に手が届くように」振ったつもりである。

 本番では、冒頭からⅠ北海道大学、Ⅱ東北大学、そしてⅢ東京大学の順番で、それぞれの持ち歌が単独で歌われ、それから合同ステージになったわけであるが、単独ステージが長いため、東京大学の前で休憩に入り、それからすぐにⅣ合同ステージになったため、本当は蝶ネクタイから団員用のネクタイに着替えたかったのだが、それも叶わなかった。
 東大の単独ステージでは、2月22日日曜日に現役コールアカデミー定期演奏会の1ステージで現役生と合同で演奏した谷川俊太郎作詩、木下牧子作曲の男声合唱曲集「地平線のかなたへ」を指揮した。

 それからⅣ合同ステージになったわけだが、僕はNHKドラマの「マッサン」を思いながら中島みゆきの「麦の歌」を歌い、しみじみと「荒城の月」に酔い、そして「東京キッド」でピアノを弾いて会場を手拍子でおおいに湧かし、「富士山」で歌う位置に戻って、高崎高校合唱部時代から親しんでいた多田武彦のワールドに浸り、そして最後に髙田三郎の「海よ」では、再び中央に出てきて、丁寧に指揮をした。

 さて、公演が終了して楽屋で着替えていたら、なんと高崎高校合唱部の同級生であった羽鳥克哉(はとり かつや)君が楽屋に僕を訪ねてきてくれた。彼とはクラスも一緒で、あの当時僕は芸大を目指していたし、優秀な彼は東大を目指していた。彼はあの頃、僕に何度も言った。
「三澤、俺たちが現役で、お前は芸大、俺が東大に受かったら、不忍池(しのばずのいけ)で逢おうな!」
ところが、彼は現役で東大に受かったけれど僕は芸大に入れてもらえずに国立音大声楽科に行ったので、僕たちの不忍池の約束は果たせないままに終わった。おそらく僕の記憶では、高崎高校卒業以来、僕たちは一度も逢っていないと思う。だから53年ぶりというわけか。
 それなのに、羽鳥君は、高校生の時と同じ顔をしていた。太りもしなければ痩せもしないので、街ですれ違っても気が付いたかもしれないほど、あの頃のままだった。彼は、今でも合唱をやっていて、男声合唱団 東京リーダーターフェル1925で第1テノールのパート幹事をやっているという。

 打ち上げになったら、なんと「東京キッド」を編曲した青木肇氏が呼ばれていた。
「ヤベエ!」
と思い、青木氏のところに行って、
「すみません!編曲者を前に、好き勝手にオカズを入れまくって全然違う風に弾いてしまいました」
と謝ったら、笑ってくれたのでホッとした。心の中ではどう思っているのか知りませんけど・・・。

母の一周忌
 これを書いているのは月曜日だけれど、昨日の3月29日日曜日は、群馬で母の一周忌の法要を行ってきた。母が実際に亡くなったのは4月の7日であったのだけれど、それでも、もうあれから1年近く経ったのか、と思うと感慨深いものがある。
 親族一同は直接お寺に11時に集合して法要を行い、そのままお墓に歩いて行って、その後みんなでお寿司屋さんでお昼を食べた。僕は長男なので、引き物の調達に始まってお寺や寿司屋の予約など、不備のないように気を付けたが、全てが無事に終わって今はホッとしている。

 それよりも、法要やお墓参りの後、みんなが長く並べられたテーブルの料理をつまみながら、和やかな歓談のひとときを過ごしていて、僕はしみじみ昔を回想した。

 かつては、暮れやお盆になると、必ず、僕は家族を連れて群馬の実家に行った。そこに、渋川市に住んでいる上の姉の家族と、栃木県佐野市に住んでいた下の姉の家族がやってきて、自宅でこのような宴会を行うのが常であった。
 広い群馬の実家に、ありったけの布団を敷きまくって寝たし、お正月はみんなでカニを食べ、お盆では、僕が火をおこして、みんなで外で蚊に食われながらバーベキューをして食べた。
 下の姉は、その後夫を亡くし、子供たちはみんな佐野市の実家を出ていたので、新町の家に出戻って、母親の世話をしていたが、母親は脳出血を起こしたことがきっかけで死ぬまで藤岡市の施設に入っていたし、その間に姉は癌で亡くなってしまった。

 もはや誰も住まなくなった自宅は、昨年取り壊して今は更地となっている。姉の子供たちも、大きくなってきたが、それでもみんなで食事をつまみながら、はしゃぎ、楽しい会話をしていると、
「ああ、みんな変わらないなあ!」
と思う。
 けれども、こうした機会が今後少なくなっていくかもしれないことを考えると、ちょっとさみしいなと思う。

2026. 3.30



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