「椿姫」もうすぐ初日
指揮者のフランチェスコ・ランツィロッタが素晴らしい。ピアノ付き舞台稽古までは、なんだかやる気があんのかないのか分からない感じで指揮していたが、昨日のオケ付き舞台稽古になったら、まるで別人のように俄然調子が出てきた。
キャストでは、なんといっても中村恵理さんのヴィオレッタが、歌、演技とも、きめ細かく素晴らしい。外国勢の中では、アルフレードの父親であるジェルモンのグスターボ・カスティーリョが、一声出した瞬間、みんなド肝を抜かれた。なんという声量と音色。理想的な発声だ。彼を聴きに来るだけでも劇場に足を運ぶ価値があります。
勿論アルフレード役のリッカルド・デッラ・シュッカも正統的なテノール・リリコで秀逸。その他、日本人キャストもみんなそつがなく頑張っています。
誰でも知ってる有名なオペラだけれど、このレベルでの演奏は、海外の劇場も含めてなかなか聴けるものではないよ。前にも書いたように、合唱の発音とアーティキュレーションは、初期ヴェルディ演奏のひとつの典型に仕上がっている誇りがあります。これも是非味わって欲しいと思います。
金魚鉢と言われる、客席1階後方の舞台監督室のウィンドウからは、合唱アシスタントとして、僕のZoom指揮レッスンの最初の生徒となった小山祥太郎君が、第1幕と第2幕、赤いペンライトでマエストロの動きに合わせて舞台上の合唱団を指揮している。僕が横からいろいろアドバイスを与えている。
第3幕では、舞台裏で、合唱団とバンダ(2本のピッコロ、2本のEsクラリネット、タンブリンとカスタネット)を従えて、バッカナールを指揮している。
今日は、これからオケ付き舞台稽古で、合唱団員を含むキャスト達は衣装付きで、ほぼ通し稽古だし、次は公演初日なので、実質ゲネプロだ。行ってきまーす!
皆さん、是非来て自分の耳で確かめて下さい!良い本番となるのを保証します。
僕の日常
とにかく、家に居る時はパソコンの前に座って、Finaleを開けて譜面を作り続ける毎日である。今は、アッシジでのスコアの最終見直しと、パート譜の作成及びレイアウト。でも、もう前半の曲目は終わって、後半のミサ曲のCredoに入ったところなので、今週中に仕上がると思う。
そこでバンザーイ!となればいいのだけれど、なんと、秋のモーツァルト200合唱団のフル・オーケストラ編成のスコアとパート譜が残っている。これも以前書いたように、2020年の公演に向かって途中まで作っていたのが、コロナであっけなく中止に追い込まれてしまったため、中断していたのだ。締め切りは6月末日。あははは・・・まだまだこの日々は続くのだ。
ただね、自分の書いた曲が現実に音になることを想像しながら、一音一音をしたためていく作業は、これはこれで楽しいし、希望が膨らむ。作曲家って、これが日課なんだからね。僕は、適当に外に出掛けて行って、指揮者や合唱指揮者としてのアクティブな行動との組み合わせだから、まあ、双方が気分転換になって良いとこ取りともいえるだろう。
Musik macht frei:坂本龍一のこと
僕のパスポートは2020年に切れていて、12月に予定されていたウィーンとザルツブルクへのツアーに向けて更新しなくてはと思っていたら、上にも述べた通り、コロナで全てがなくなってしまった。その間、海外への旅など考えられなかったけれど、今年の夏にはアッシジに行くので、立川ルミネ9Fにあるパスポート・センターに行って申請し、後日受け取りに行ってきた。
パスポート・センターの一階下の8Fにオリオン書房があったので、ブラッと回っていたら、視線のはずれに突然ドイツ語が飛び込んできた。
こういうのに僕はすぐ反応するんだよね。手書きでMusik macht frei「音楽は自由にする」と書いてある。いきなり難癖をつけるけれど、この文章って対象がないのが僕には居心地が悪い。日本語だと別にいいのだが、Musik macht mich frei.「音楽は僕を自由にする」とか、Musik macht uns frei.「音楽は僕たちを自由にする」とか欲しいなあ、もうひとつ言うとDie Musikと冠詞もつけて欲しいなあ・・・などと心の中でいちゃもんを付けながら手に取ってみた。
Musik macht frei
それと同時に、違和感もありました。ウサギという物体と、ぼくがつけた曲は、本来なんの関係もないのに、結びついてしまった。まさにそのウサギがいなければ、その音楽は生まれなかったわけですが、でも実際に手を噛まれたり、ウンコの世話をしたり、そういうふうにぼくが触れたウサギとはまったく違うものが生まれている。
表現というのは結局、他者が理解できる形、他者と共有できるような形でないと成立しないものです。だからどうしても、抽象化というか、共同化というか、そういう過程が必要になる。
すると、個的な体験、痛みや喜びは抜け落ちていかざるを得ない。そこには絶対的な限界があり、どうにもならない欠損感がある。
でも、そういう限界と引き換えに、まったく別の国、別の世界の人が一緒に同じように理解できる何かへの通路ができる。
言語も、音楽も、文化も、そういうものなんじゃないかと思います。