ヴェルディとベルカント唱法とスキー
先週は、新国立劇場で、月曜日から金曜日まで毎日、14:00-17:00「アイーダ」合唱音楽練習、18:00-21:00「ホフマン物語」合唱音楽練習であった。「アイーダ」は、この後1ヶ月半近く練習がない。3月20日の15時から思い出し練習をして、そのまま夜から立ち稽古になる。この期間中に、「ホフマン物語」と「愛の妙薬」という2つのプロダクションの立ち稽古から本番までがそっくり入っている。
ヴェルディは恐ろしい。どこの歌劇場合唱団でも、ヴェルディを聴くと、その合唱団のクォリティが一目瞭然に分かるからだ。ソリストもそうだけれど、ヴェルディはベルカント唱法の試金石であり、どうにもごまかせないのだ。
だから僕は、ヴェルディの合唱指揮をする時には、いつになく厳しくなる。他の演目の時は、
「はい、覚え稽古をするから同じところを何回か通します。みなさん声は適当に抜いていいからね」
などとリラックスしてやるのだが、「アイーダ」の練習では、僕がみんなに声を抜くことを許さないものだから、練習が終わるとみんなクタクタになったと思う。午後は「アイーダ」で声を使い果たし、夜は「ホフマン物語」で、フランス語の歌詞を読み、覚えるので目がショボショボになっていただろう。
しかし僕は、今回ほど合唱団のみんなを尊敬したことはない。本当に彼らはプロだと思う。僕が見ている限り、ほとんど練習中にサボったり体力温存しようとして声を抜いた団員はいなかった。まあ、僕がいつになく厳しく、彼らのひとつひとつの欠点を見逃さず、直していったからなのだが、それに食らいついてきた彼らのプロ根性は、この1週間で目を見張るような効果を上げた。断言するけど、新国立劇場合唱団は、次の「アイーダ」で生まれ変わる。
それが可能となった背景に、僕が「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプから帰ってきたばかりというのがある。僕はキャンプ中の講演会で、「スキーと音楽との接点」の実例として、声楽と指揮を例に挙げて説明した。特に、2月のキャンプでは、合唱団のメンバーが多かったので、声楽に焦点を合わせた部分もあった。
声楽では、腹式呼吸をして横隔膜を下げると、それを下げたままキープしていることが求められる。でも、実際にはフレーズの終わりとか、ディミヌエンドなどする時に、一緒に横隔膜の圧が緩んでしまう人が多く、「常に」圧をかけている人というのは、むしろ少数派なのである。
しかしながら、特にヴェルディでは、これは許されないことなのである。ヴェルディのメロディーでは、太い筆で真っ直ぐどこまでも長い一本の線を描くことが求められる。その線がゆがんだり曲がったりしてはならず、ある種の勢いをもってスーッと引かれなければならない。そのためには、ずっと一定の圧が横隔膜にかかっていなければならないのだ。
「ほら、今のメロディーで、入ってからちょっと音色が変わったろう。何かしようとしてはいけないんだ。ヘタでもいいんだ。まっすぐに線を引くことだけ考えて!」
と僕は指摘する。意外とこれがみんな出来ない。
あるところでは、Sotto Voceと呼ばれる柔らかい音色が求められる。ところが、その箇所になると、お腹の圧がなくなっちゃう人がいる。
「だめだめ。即座にフォルティッシモで歌えるように横隔膜の圧を保っていながらSotto Voceを出すべきなのだ。分かり易く言うと、お腹はお腹で圧をかけ、同時に『あくびをするように喉を開けて』硬い響きを逃がすのだ。でも、横隔膜の圧は逃がしちゃ駄目だよ!」
これを説明するのに、僕はスキーの技術を例にとった。
「スキーの圧は何でかけるか知ってるかい?ターンの終わりでは自然に外足にグーッと体重がかかってくるよね。でも本当はそのことではない。切り替えてターンの初めから、スネをブーツの前のベロと呼んでいる部分に押しつけること。これによって、固定されているブーツが板の特に前方の方に圧をかけるのだ。これによって、板を完全に制御することが出来る。
でもね、切り替えてターンが始まると、油断して真っ直ぐに立ってしまって、スネがベロから離れてしまう人がいるんだな。これが、圧を逃がしてしまう人。本当はずっと圧をかけ続けていないといけない。
一方、ターンというのは、「つま先で始まりカカトで仕上げる」と言われる。どんなターンも、切り替え後、つま先に重心がかかっている状態から始まり、しだいに後ろに行ってカカトの重心で終わる。ロングターンやショートターンがあり、つま先からカカトまでの時間には極端な時間の差はあるけれど、かならすこの状態を経過する。
では、重心がカカトに行ったら、スネがベロから外れるかというと、そんなことはない、何故なら、そこで膝を曲げてかがむから、嫌でもスネがベロを押す。つまり、スキーではほとんど全ての瞬間において、スネがベロを押している。これが声楽における横隔膜の圧と一緒だ。
では、Stto Voceなどの柔らかい声や、チェンジ区域における、ファルセットと地声のミックスは、スキーにたとえると何か?それがズラし(スライド)というものなのだ。それで、ズラす時にスネのベロへの圧を逃がしてしまう人が多いが、声楽でも、横隔膜の圧をかけながら、同時に「あくび」の操作をして響きを柔らかくしなければならない。つまり、何度も強調するけれど、
「どんな時も圧を逃がす瞬間はあってはならない」
のだ。
スキーも声楽も、どんな時も“圧”こそが「完全制御」を成し遂げる鍵なのである。
僕が、あまり熱心にスキーのことを話すので、みんな呆気にとられていた。
「雪山から帰ってきたばかりの三澤さんったら、よっぽどスキーにハマっているんだな」と、みんなあきれているだろうなあ、と思っていたが、案外みんな真面目に聞いている。
休み時間になったら、何人かの団員が僕のところに来て、
「三澤さんの言っていること、とっても良く分かります!」
と言うではないか。スキーをしている人もしていない人も、みな等しく理解してくれたようである。
「合唱指揮者は、ひとりひとりの団員の発声法にあまり踏み込んではいけない」という常識のようなものがある。僕も昔そう思っていた時期があった。しかし、バイロイト音楽祭に行ってみたら、当時の合唱指揮者ノルベルト・バラッチュは、そんな常識など何処吹く風。自分で歌いながら、どこまでもどこまでも自分の気に入った音色を得るまで、発声法への追求をやめない。
まあ、考えてみれば、プロの声楽家を相手に発声法を説くわけだから、なまじっかな知識でそれを行ったら反発を受けるのは必至だ。だったら、あえて触れない方がいいのは決まっている。しかしながら、合唱指揮者の方に確固たるイメージがあるならば、リスクを恐れずそれを追求すべし。要は、自分の中に、何があってもブレないほど練られた知識やメソードがあることが大事なのだ。
そんなわけで、この一週間、本当にガシガシやって、みんなも全然声を抜いたりしないで、まるでクラブ活動のように根を詰めて練習したが、不思議なことに、彼らの声の鮮度が落ちたりしないで、それどころか日に日にみずみずしい声に変貌していった。
これは、「正しい支えで歌われれば声帯疲労が極度に抑えられる」という見本のような状態である。反対から言うと、しっかり支えられていない人ほど声帯を使って歌うので、疲れやすいのだ。素人の人に、ワーグナーの楽劇の主役を歌い通すことが決して出来ないのも同じ理由。
正しい発声は、より響く大きな声を出すだけじゃない。より能率的に体の筋肉を使い、声帯のまわりに不必要な疲労を導き出さないので、長時間歌うことも可能にするわけである。
「アイーダ」のマエストロはパオロ・カリニャーニ。水泳が大好きで、日本に滞在中は1日3000メートル平気で泳ぐというスポーツマン。僕とも気が合う指揮者だが、彼に今の新国立劇場合唱団を聴かせたらなんて言うかな?楽しみ楽しみ。
この週末
そんなわけで、2月9日金曜日まで、ずっと新国立劇場に拉致監禁されていたので、運動不足になっちゃた。まあ、指揮しているわけだから、全く体を動かしていないわけではないし、朝はお散歩しているのだが、とにかくスキーに行きたくてたまらなくなった。
そこで10日土曜日は、朝、孫の杏樹を保育園に送り出す志保の車に便乗し、K2の244というスキー板を乗せて、保育園経由で国立駅まで送ってもらって、狭山スキー場まで行った。こんな小さなゲレンデがひとつしかない狭山スキー場など、これまで全然興味なかったが、今年はよく行く。案外、こうしてストイックにトレーニングするのが自分に合っているようだ。
この日はねえ、角皆君からこの間教わったドルフィン・ターンの練習が主だった。テールに引っ掛けてトップを上に挙げてジャンプし、そのままカカトをお尻に引きつけるようにしてトップから着地する。その形が、まるでイルカが波間をジャンプするように見えるからドルフィン・ジャンプというわけだ。しかし、これは予想以上に難しい。いや、難しいというより、すごく疲れる。だって、これを書いている12日月曜日でも腹筋の筋肉痛が残っているんだもの。