JASRAC音楽文化賞をいただきました

 

三澤洋史 

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JASRAC音楽文化賞をいただきました
 ある日、仕事から帰ると妻が、
「JASRACから電話があったよ」
と言った。
 JASRACとは日本音楽著作権協会のこと。演奏会などで最近の曲を使う時は、必ず著作権料を払わなければならないので、演奏家である僕たちは基本的に払う方の立場にいる。
とっさに思ったのは、
「ヤバい。何かの申告漏れをして著作権料を請求されるか、さもなければ怒られるのかな」
ということであった。一応必要なものは届け出しているつもりであるが、僕自身ではなく僕が関係している団体を通してというのがほとんどなので、確信がないのだ。
 翌日、また電話があった。びくびくしながら出ると、なんだか賞をくれるという。
「受けていただけますか?」
と言われたので、勿論断る理由もないので承諾の返事をした。その時点ではまだ、この賞の趣旨が良く分かっていなかったのだが、担当の人と何度か電話でやり取りしていく内に、もしかしたら、今このタイミングで僕がこの賞を受賞するということは、とても大きな意味があることなのかも知れないと思えてきた。

これは、“JASRAC音楽文化賞”というもので、僕の顕彰理由は以下の通り(原文通り)。

  合唱団の指導、育成に卓越した力を発揮し、新国立劇場合唱団の専属指揮者として同合唱団を世界有数といわれるレベルに引き上げた功績をたたえるとともに、オペラ指揮者の陰に隠れがちな合唱指揮者の重要性に光りを当てる意味も込めて顕彰する。
 後半の文章が、僕にとっては特に嬉しい。元々JASRACにはJASRAC賞というものがあって、最も著作権料を払った人や団体に対して与えられる賞だというが、今年第3回目を迎える音楽文化賞は、そういう数字などに現れない地道で価値ある活動に対して、そこに光を当てる趣旨で作られた賞であるという。
 一般の人達は、合唱指揮者というのが何をしているのかよく分からないが、ヨーロッパなどの歌劇場では、音楽監督の次に高い地位が与えられている。何故かというと、歌劇場のクォリティを決める鍵はオーケストラと合唱団の質にあり、音楽監督がオケの責任者であれば、合唱指揮者は合唱の責任者であるからだ。

 11月18日金曜日、僕は妻を伴って授賞式に出かけた。そして受賞後のスピーチで、次のような内容を報道陣の前で語った。
新国立劇場が出来る前は、二期会を中心に仕事をしていましたけれど、その頃から、ヨーロッパの歌劇場と比べて合唱指揮者の地位が比べものにならないほど低いことを悲しく思っておりました。
良い歌劇場とは何でしょう?たとえば聴衆から見たら、新国立劇場では開場当時から世界的に見ても一流の歌手達や指揮者演出家達が出入りしているので、昔も今もあまり変わっていないように感じられるでしょう。しかしながら、それらの人達を受け止める劇場側のスタッフ達のクォリティが整っていなければ、良い歌劇場とは言えないのです。
それを一番良く知っているのは、来日するアーチスト達自身です。開場当時と現在とで何が一番違っているかというと、来日する彼らの我々スタッフに対するリスペクトの度合いです。
新国立劇場では、私の他に沢山の劇場スタッフがいます。みんな我が国のトップレベルの人材が集まっていて、互いに互いの仕事を尊敬しながら、それぞれの分野でプライドを持って仕事しています。合唱指揮者としての私は、公演が終わるとステージに出てきますが、それらの人達は出てきません。
私が、この賞をいただくことは、私自身のことよりも、そうした人の目に付かないけれど陰で頑張っている全ての人達のためにとても大きな意味を持っています。
また、指揮者になりたい人は沢山いるけれど、なかなか合唱指揮者という地味な分野では後に続く人材に恵まれませんが、この受賞がきっかけで、へえ、そういう人がいるんだと興味を持ち、後に続いてくれる人達が現れてくれるならば、この賞が将来的にもたらすであろう影響力は計り知れません。
そういう意味で、私は他の賞でなく“この賞”をいただけたことがとても嬉しく、このような価値ある賞を是非続けていって欲しいと切に願っております。
 そしたら、授賞式後の懇談会で、JASRAC担当者のOさんが、
「三澤さんのスピーチを聞いて泣いてしまいましたよ。まさに、私たちの賞が報われた気がして・・・・」
と言ってくれた。


JASRAC音楽文化賞

 一緒に受賞したのは、別府アルゲリッチ音楽祭の総合プロデューサーでピアニストの伊藤京子さん、気仙沼ジュニアジャズオーケストラ「スウィング・ドルフィンズ」、現在福島第一原発事故による避難区域に指定された川俣町の山木屋太鼓であった。
 特に「スウィング・ドルフィンズ」の話には泣かせられた。気仙沼のこの団体は、子供達がジャズのフルバンドを演奏するというユニークな活動を続けていたが、東日本大震災によって、練習場が津波で楽器や譜面もろとも流され、団員達は家を失い、とても続けていくどころの騒ぎではない。
 そこにあろうことか米国から寄付としての楽器が届いたという。それでも大人達は、存続しようにも第一練習場所がないし、いやいや無理でしょうとあきらめていた。ところが、楽器を見て目をきらきらさせた子供達が、
「ねえねえ、いつから練習するの?」
と大人達に迫ってきたという。
 その子供達の言葉に逆に大人達が励まされる形で活動を再開し、2013年には、様々な寄付や補助のお陰で、みんなで米国を訪問し、楽器の寄贈を受けたお礼の演奏会を行い、スタンディング・オベイションの大成功を収めたというのだ。
 山木屋太鼓も同じような境遇で、放射能のために住む地域を追われた人達が、それでも頑張って活動を続けている。彼らと話したが、皆口を揃えて、
「復興に、音楽がこれほどの力を発揮するとは思ってもみませんでした」
と語る。
 JASRACの係の人は言う。
「とはいえ、演奏されている質自体が納得のいくものでなければ、ただ逆境にめげず活動しているというだけでは、JASRACとしては賞をあげるわけにはいきません。そのために選考委員はきちんと足を運んで、その演奏内容などを吟味して、これらの団体に決めたのです」

 また、アルゲリッチ音楽祭を続けている伊藤京子さんとは、授賞式前の待合室で楽しい語らいをさせてもらった。僕自身がベルリン留学時代に聴いたアルゲリッチの演奏のことなどを話すと、
「あの人は、あまりにも凄すぎて、もはや“人類”だと思えません」
と言ったのがウケた。そうだよな、ベルリン・フィルの演奏会で、小澤征爾さんの指揮でラベルのト長調協奏曲を演奏した時なども、信じられないくらいの猛スピードで突っ走るので、小澤さんが後から、
「待てえーーー!」
と付いて行く感じだったからなあ。あれには心底ぶったまげた。あんな難曲をあんな風に弾ける人、世界中に彼女ひとりしかいない。

 次の日、新国立劇場の「セヴィリアの理髪師」の舞台稽古に行き、合唱指揮者がダメ出しを書くホワイトボードに、自分が受賞したことを書き込んだ。受賞理由と、この賞を合唱団のメンバー全てと、劇場内で頑張っている全てのスタッフに捧げる旨を書いた。すると、合唱団員だけでなく、いろんな人から、
「おめでとうございます!」
と声をかけていただいた。その他、沢山の人がメールなどでお祝いの言葉を贈ってきてくれた。その中には、意外な人も少なくなかった。本当に嬉しく思っている。

 僕は別に、自分が認められることで合唱指揮者の地位が向上することを願ってこれまで活動してきたわけでもない。けれど、心のどこかには、座付きのスタッフの一員として新国立劇場という歌劇場を支えているという誇りと自負はある。
 そして、もっともっと有能な若い合唱指揮者が後に続いて欲しいし、内部のスタッフ達の活動が明るみに出ることによって、みんなのモチベーションが上がり、さらなる劇場の発展を願う気持ちがある。
 その意味で、この受賞は、自分自身のこれまでの活動が評価されて僕自身が嬉しいというものにとどまらず、この受賞が、これから未来に向かって様々な可能性が開かれていくきっかけになることを切に望む。
 そのためには、自分もまだまだ自己満足に浸っている場合ではない。己に厳しく、さらなる精進に励んでいかなければ!
みなさん、これまで僕を支えてくれて本当にありがとうございます!
そして、またいっそう頑張ります!

映画「沈黙」
 今週中に2つの原稿を仕上げなければならない。それとは別に、あるキリスト教系の月刊誌から原稿を頼まれていて、締め切りが12月中頃である。こちらの方が後なのでまだ時間があるのだが、題材が遠藤周作著「沈黙」に関係するものなので、じっくり考えたいと思っていろいろ資料を開いたり、のんびりと準備を始めている。

 来年早々「沈黙」が映画化される。監督はマーティン・スコセッシ。かつて、キリストが十字架から降りてもうひとつの人生を生きるという不思議なストーリーの故に、欧米の教会を中心に大きな抗議運動が起きた「最後の誘惑」を手がけた監督だ。そのスコセッシが、今度は遠藤周作「沈黙」に挑戦するわけだが、その映画の封切りに先駆けて、その雑誌では「沈黙」をテーマにする。
 何故僕のところに原稿依頼が来たかというと、僕は松村禎三氏作曲のオペラ「沈黙」にも初演の時から関わっているので、原作とオペラとの違いや、またキリスト教信者としてこの作品をどう思うか、多角的な視点から語って欲しいということだ。
 僕が原稿を書く時、たとえばこの「今日この頃」などは、口述筆記よりは勿論遅いが、気が乗ると、しゃべっているくらいの速さでキーボードからたたき出し、文章を書き飛ばすという雰囲気で一気に仕上げてしまう。でも依頼された原稿の場合は全然違う。何度も推敲するし、時には今まで書きかけていたものを棄てて全く振り出しに戻ったりもするので、最初の草稿がそのまま最終稿になることはまずない。
 とはいえ、何か書き始めないと始まらないので、今日も、ついでだから(失礼)、第一稿だと思ってつらづらと書いたものを、この「今日この頃」にも載せてみたい。恐らく、出来上がった雑誌の記事は、これとは似ても似つかぬものになるような気がするだろうが、ボツになったものでも後で読むと結構良い記事だったりするから、この記載は無駄ではないと思います。

 昨晩(20日日曜日の晩)、篠田正浩監督の映画「沈黙」をDVDで観た。はっきり言って腹が立った。このDVDは、国内盤では絶版になっているが、英語字幕付きの外国盤ではまだ売り出されていることを知ってAmazonで取り寄せてみた。英語字幕とは言っても、ロドリゴが英語でしゃべるところでは日本語の字幕になっているのが嬉しい。
 これから原稿を書くというのに、こんなこと言っていいのかどうか分からないけれど、僕はこの小説が嫌いだ。理由は2つあって、ひとつはクリスチャンの僕にとって、弾圧及び拷問の場面を観るのが辛いこと。もうひとつは、最後に神父がキリスト教信仰を棄てるというストーリー展開を通して遠藤氏は何を言いたいのか理解できないこと・・・いや、理解できないわけではないな。理解したくないのだ。ロドリゴのかつての師であるフェレイラの、
「基督(キリスト)は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」
という言葉や、
キリスト自身の、
「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」
という言葉を読みたくなかったのだ。

 映画を観る前に、あるいはオペラとなったこの作品に触れる前に、原作に対してこのような色眼鏡で観ているわけだから、すでに難しいのであるが、結局のところ、僕にとってはオペラ「沈黙」が一番しっくりくるのだ。
 これは神の沈黙がテーマのわけでしょう。なのに最後にイエスがのこのこ出てきてしゃべってしまったら、もはや沈黙ではないではないか。これこそ自己矛盾。その点、オペラはいいなあ。踏み絵を踏むロドリーゴの背後から静かにOra ora pro nobis(我らのために祈り給え)と裏コーラスが響く。これが、まるで大気に充ち満ちる神の慈愛の息吹のように感じられるのだ。
 遠藤氏は、自分が一生懸命書いた言葉をざっくり切られて気にくわなかったかも知れないが、それは松村禎三氏の信仰心からくる解決法であり、ある意味遠藤氏への挑戦であったのかも知れない。
 オペラ「沈黙」の初演時、僕は練習の合間にいろいろ松村氏と話をした。松村氏は立派な人だった。彼は、自分はキリスト教信者ではないけれど、法華経の信心を持っている、と語っていた。そう語る彼の目には信仰への情熱が燃えていた。

 音楽家の信仰心には独特なものがある。ジョン・コルトレーンがそうであったように、インスピレーションとして、あるいは啓示としての神の息吹を知っているのだ。そうした者にとっては、もともと宗派の垣根など存在しない。バッハがルター派プロテスタントなのに何故カトリックのミサ曲を書いたかなんて、所詮愚かな疑問なのだ。バッハの元に降りてきたインスピレーションは、ルター派礼拝音楽だから降りてカトリックのミサだから降りないなんてことはない。
 こんな僕でも、バッハを演奏している時には、上から何かが降りてくるのを感じる。それは、言葉ではあらわせないほどの豊かな輝きに満ちた暖かい感情を伴っている。また、作曲する時にも、楽想と共に同じような輝きが僕の全身を包む。
 これを一度でも経験した者は、「神が沈黙している」か否かなどということにこだわっているのが馬鹿馬鹿しく感じられる。まあ、ベルナデッタのように、神的存在が目の前に出てきて“言葉で語る”というのもあるかも知れないが、そもそも大宇宙を統べたもう神が、
「はい、わたしは神でーす」
って出てくるわけないだろう。そこに大きな誤解がある。
 確かに生身の人間の目には、神の存在というのは意図的に隠されているのかも知れない。しかし、心の目でみつめてみれば、神の存在は至るところに感じられる。それを感受出来ないのに、どうして信仰者でいられるのか、僕には理解できない。
 遠藤氏は、キリスト教弾圧の時代を舞台にして、迫害や拷問をこれでもかと描き、
「ほら、こんな状態に追い詰められても、神は沈黙しているのだ」
などというストーリーを展開しているが、この問題提起がナンセンスだと言いたいのだ。

 篠田氏の映画は、その遠藤氏のアプローチにさらに輪をかけてピントがはずれている。まず起用したロドリゴ役のディヴィド・ランプソンが大根役者であることも手伝って、神父の信仰心の部分が全く見えない。というか、篠田氏の興味はそこにはないようだ。篠田氏は、映画のプログラム冊子で次のように述べている。

「沈黙」の中で私が見たかったものは、人間の卑怯未練であり、原則に徹底する西欧思想のはげしさであり、そのはげしさをなしくずしにしてしまう日本の風景である。
 一番残念なのは、この映画の中でただの一瞬たりとも、神の息吹が感じられないこと。その代わり、僕がたった一カ所だけ感動して胸を熱くした場面があった。それは、キチジローがロドリゴを売ったお金で遊女の所にいく場面。
「お前さん、泣いてるね」
と、三田佳子演じる妖艶な遊女が言う。キチジローが逆に遊女の身の上を訊ねると、小さい弟がいるという。
「お互い、生きていくのって辛いねえ」
と、しみじみ言う。
 つまりこの映画は、こうした日本的な情緒のみで出来上がっているのだ。フェレイラは、日本という土地は沼地で、キリスト教は育たずに根から腐ってしまうと言って、ロドリゴを説得しようとするが、篠田監督自身がまさにこんな日本人なのだ。だから、キリスト教のメッセージは伝わるはずもないが、逆にエモーショナルな場面は総じて秀逸。

 しかし、ラスト・シーンの劣悪さをなんと形容しよう。ロドリゴが自分にあてがわれた女(岩下志麻)にむしゃぶりつくように抱きつくところで終わるんだ。なんだ、男ってとどのつまりみんな、ただのケダモノなのね・・・じゃねんだよう!
 さすがに遠藤氏は篠田氏にこの場面をカットするよう頼んだが断られたとプログラム冊子に書いている。しかしその直後、この映画の出来映えを絶賛して文章を閉じている。松村禎三さんのオペラ初演の打ち上げでは、あんなに不機嫌そうに、
「これは私の『復活』ではありません!」
と言い切って、みんなをうろたえさせたのに・・・・。

 キチジローは、誰よりも弱い人間に見えるが、転んでも転んでも、なおもロドリゴを求めていくところに、実は信仰心の強さを遠藤氏は表現したかったのだろう。それは、脱ごうとしても脱ごうとしても、けっして脱ぐことの出来なかった、遠藤氏にとってのキリスト教というものなのだ。そのキチジローを演じたマコ・岩松は確かに素晴らしい。でも、そんな彼の卓越した演技も、映画自体が宗教的なものを指向していないがために、よく分からない人物で終わってしまう。

 みなさん。キリスト教徒もそうでない人も、この映画は観なくていいです。スコセッシ監督の新作に期待しましょう。僕も自分の信仰心を磨きながら、もう少し「沈黙」について深く考えてみます。小説は、「オペラ座のお仕事」文庫本化で、追加章のオペラ「沈黙」の記事を書くにあたって最近読み直したのだが、もう一度じっくり読んでみようと思う。



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