ピーター・グライムズと人間の悪意evil

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真  「おにころ」公演が終わって張り詰めていた糸が一気にゆるみ、数日間は“ふぬけ”の状態が続いていた。でも、次の日から新国立劇場ではブリテン作曲「ピーター・グライムズ」の合唱音楽練習が始まった。うかうかしてはいられない。もう次のシーズンがしっかり始まっているのだ。

 「ピーター・グライムズ」は、ブリテンの最高傑作ともいえるオペラである。ここではワーグナーやリヒャルト・シュトラウスとはまた違った方法で、音楽とドラマとの見事な融合が見られる。あるところでは、通常の会話のスピードや抑揚そのままに。また別のところでは、それぞれの方法論にのっとって、会話は様式化されたりカリカチュアされたりして、ドラマチックなダイナミズムを生み出していく。
 20世紀のオペラであるが無調ということではなく、とは言っても伝統的な機能和声法というわけでもない。ブリテンの作曲方法は、マイルス・デイヴィスなどが取り入れたいわゆるモード(旋法)に基づいているもので、完全4度を積み重ねた4度和声を多用する。僕も、ちょっと現代曲的なサウンドが欲しいのだが、さりとて無調によっては作りたくない場合に、よくこの方法で作曲する。つまり、割と簡単にモダンなソノリティが得られる方法なのである。
 この方法を最初に採用したのは、意外に思われるだろうが、実はドビュッシーである。もともとフォーレなどのフランス和声は、ドイツ音楽と比べて和声連結が厳格ではなかったが、ドビュッシーの偉大さは、機能和声法の一線を越えたところにあるのだ。

 モードの考え方は、ドビュッシーが一線を越えるためのちょっとしたアイテムというか、理由付けに過ぎなかった。けれど、そのアイテムが、バッハ以後音楽界を支配していた機能和声によるドミナントの呪縛を打ち破った。作曲家は最も近くて遠いCの和音からDbの和音に、何のドミナントの手続きもなく、ただ平行移動すれば良くなったのだ。
 この発明こそ、シェーンベルクが開発した12音技法によるミュージック・セリエルと同じくらい偉大だったのだ。いや、現代まで続いている後世への影響を考えたら、シェーンベルクよりずっと偉大かも知れない。現在では、完全なセリーで作曲をしている作曲家など、ほとんど誰もいないからね。
 ドビュッシーからラベルまではすぐで、あとはプーランクであれストラヴィンスキーであれブリテンであれ、そして、マイルス・デイヴィスであれ、ジョン・コルトレーンであれ、そして武満徹であれ、モードによる作曲法は、ずっと未来に広がるレールが敷かれたというわけである。

 そんなわけで、合唱団にとって、「ピーター・グライムズ」の音取りは、無調音楽よりは易しいが、決して簡単とはいえない。加えて、英語の歌詞というのがなかなか曲者である。言語指導のイギリス人の先生がついているけれど、英語をベルカント唱法(クラシックの発声法)で歌うのって、案外難しいのだ。英語はなんといってもジャズやポップスの発声に向いている言葉だ。
 まあ、ここでは米語ではなく英国式の発音なので、hotを米語のようにハットと発音したりしないでホットと読ませるところなどは、中学校で習ったものに近いので良いけれど、rでどうしても舌が後方に巻き気味になってしまったり、workなどの曖昧母音の処理も、慣れないと一筋縄でいかない。

 あと一週間でみんなに暗譜をさせ、立ち稽古に臨まないといけない。とても量が多いので、みんなも、
「覚えられる気がしねえ!」
と言っているが、僕もそう思う・・・・おっととと・・・・合唱指揮者がそんなこと言っちゃあいけない。なんとしてでも覚えさせないといけない。そのためには、嫌になるくらいの反復練習あるのみだな。さあ、今週は覚悟をきめねば!!

 ピーター・グライムズは腕利きの漁師。潮の流れを読み魚の大群を探し当てるのに長けている。でも、見習いの少年殺害の疑いがかけられており、いわゆる社会のアウトサイダーである。そのアウトサイダーを取り巻く「善良なる市民」の悪意evilというものが、このオペラのテーマである。 
 そうしたストーリー展開と結末だけ見ると、カタルシスも大団円もない気が滅入るオペラと言えなくないが、僕はむしろ3.11以降の日本人のあり方と重ね合わせてこの作品を見つめている。すると、あまりにも符合することが多く、今この作品を上演することは、とてもタイムリーであると思えるのだ。

 裁判官を務める市長は、わざとピーターを有罪に定めない。そこに行政に携わるものとしてのちょっとした悪意がある。彼は狡猾だ。つまり、グレーのまま放置することで、市民が、噂や中傷で自主的にピーターを滅亡に追いやることを市長は知っているのである。
 市長も市民も、ひとりひとりは悪人とは言えない、でも彼等にはほんの一握りの悪意が宿っている。それらは少しずつ集まるべき所に集まり、やがて、悪意の奔流となってピーターを追い詰めていくのだ。

 信仰心に溢れ、キリスト教的アガペーの精神をもってピーターの心に近づいていこうとする女教師エレン。しかし彼女の善意をもってしても、ピーターの心の闇を照らすことは出来なかった。新しい見習い少年の体に虐待による傷を発見するエレンは、深く絶望する。
 一方、ピーターは、好意を寄せてくれるエレンとの結婚を望んでいたが、教会から敬虔なる信徒達の祈りの歌が聞こえてくる中で、エレンは、日曜日にさえ少年を働かせようとするピーターに向かって、こう言ってしまう。
We were mistaken to have dreamed.
Peter!
We've failed, we've failed.
「あたしたち、間違っていたのね。夢見たりして。
ピーター!
あたしたち、失敗したのよ。失敗してしまったの」(三澤訳)
 失望したエレンにさらに追い打ちをかけるように、市民は、エレンがピーターの罪に荷担したと言って、彼女を非難していく。こうして、彼女の善意は全て葬られてしまう。実に痛ましい人類の悲劇であると僕は思う。

 合唱の部分には、嫌になるほどひとつのモチーフの繰り返しが見られる。同じ歌詞をこれでもかと思うほどリピートする。すると、その言葉は呪文のようになり、パワーを発し、行動のエネルギーとなる。ピーターが新しい見習いの少年を虐待し暴行を加えていることが、市民の間で噂になっていく。
「なんだ?なんだ?なんだ?なんだ?」
What is it? What is it? What is it? What is it?
「なんだと思う?」
What do you suppose?
「グライムズがね、(虐待を)ヤッてるらしいよ」
Grimes is at his exercise.
 噂は発展し、市民は憤り、太鼓を叩いてピーターを捕まえに行く行進に発展していく。まさに集団心理の怖さ!ブリテンのこうした表現は本当に見事だ。
 最後にピーターは沖にひとりで船を出し、溺れて自害する。法的拘束力は何らないのに、市民の悪意に屈してしまうのだ。

 一方、市民達は何事もなかったように、再び日常生活を続けていく。音楽は最後だからといって盛り上がることもなく淡々と終わる。その不条理こそ僕らの日常のようだと言わんばかりに・・・・。

 新国立劇場合唱団のメンバーに暗譜させるのは大変だけれど、僕は来週から始まる立ち稽古をとても楽しみにしている。芸術というものが人間の赤裸々な姿を描き出すものだとしたら、「ピーター・グライムズ」こそは、僕たち善良なる市民の心を蝕むevilを描き出す。そこから僕たちは何を学び得るか?「ピーター・グライムズ」はアクチュアルな僕たちに何を語りかけるのか?

 シーズンはじめの「ピーター・グライムズ」の稽古状況はまたこの欄でお知らせしますね。  


日本は変わらなければいけないんだ
 本を読みながら感動したことは多いけれど、このように怒りが込み上げてきて体がワナワナと震えるような思いをしたのは久し振りだ。実は、そうなることが分かっていたので、この種の本はあまり読みたくなかった。東日本大震災以来、海外から逆に入ってくる詳細かつ正確な情報を知っていた僕は、日本の政府や東京電力などが発する嘘や隠蔽工作の様子が手に取るように分かっていたので、今さら読んでも仕方がないと思っていたのだ。

 でも、「おにころ」の公演が終わって、気が抜けていた自分を何とか社会復帰させなければと“元気づけ”の意味で、僕は一冊の本を買った。それが僕を必要以上に興奮させてしまった。それはニューヨークタイムズの東京支局長であるマーティン・ファクラー著の「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」(双葉新書)という本である。英語の表題はもっと直接的で、Credibility Lost: The Crisis in Japanese Newspaper Journalism After Fukushima(信頼性の喪失:フクシマ以後の日本の新聞におけるジャーナリズムの危機)というものである。

 いわゆる通常の新書のように、そんなに分量も沢山あるわけではないこの本の中では、実に的確に日本のジャーナリズムの様々な問題と、それを導き出している原因とが整理されて書いてある。基本は福島第一原発事故の報道のあり方に言及しているが、それだけにとどまらない。
 ファクラー氏は、日本の「記者クラブ」制度の異常さから始まって、小沢一郎氏に対するマスコミ上げての不自然なバッシングや、「オリンパス」報道における海外メディアとの落差、言いっぱなしで訂正報道をきちんとしない報道姿勢など、実に多岐にわたって日本のジャーナリズムの問題を描き出している。
 日本経済新聞を「企業広報掲示板」と言い切ったり、「アメリカよりも人種差別に反応が鈍い日本」と主張したり、普段我々日本人が特に意識していない事にも丁寧に触れている。なるほどと思う。



 その中で、新聞の“良心”を見たシリーズ特集として、朝日新聞の連載記事の「プロメテウスの罠」が挙げられていた。そういえば、僕の家も朝日新聞を購読しているので、時々読んでいた。でも、新聞に少しずつ連載されている記事では、忙しくて読めない時もあるし、まとまった記事として全体を見渡すことが困難だ。
 そこで、単行本にまとめられた朝日新聞特別報道部著「プロメテウスの罠」(Gakken)の第1巻と第2巻とを買ってきて読んだ。

 これが本当に、読んでいて怒り心頭に発するという感じなのだ。凄いなと思うのは、ここでは全て実名で記載されてあり、なるべく主観を省いて事実を書こうという姿勢で貫かれていることだ。この記事を読んで、気を悪くしている人はかなりいるだろうし、中には名誉毀損で訴えようとしている人もいるのではないだろうか。それを思うとかなりの覚悟を持って書いているのだろう。
 朝日新聞自身にも、真実の報道が出来なかったという反省があるのかも知れない。その点についても、変な言い訳をするわけでもなく、むしろ淡々と事実はこうであったと述べていることに潔さを感ずる。相当な勇気だと賞賛したい。

 怒るポイントはいくつもあるが、特に腹が立つのは、政府が80年代から少なからぬ予算を使って開発してきたSPEEDIと呼ばれる、放射能の拡散状態を予測するシステムが、最も必要とされる時期に全く生かされなかった経緯だ。その結果、政府は、無知にも福島第一原発を中心とする同心円上に従って避難区域を指定し、住民は風向きなどによる放射能拡散の実体を全く知らぬまま、わざわざ放射能の少ない地域から。より汚染された地域へと避難するという信じられない行動をとってしまうこととなる。これはまさに国を挙げての殺人に近い行為である。

 それと、海底に設置された水圧計などで、地震直後の津波の予想がかなり正確に把握出来ていたにもかかわらず、あえて半分以上低い水位を発表した気象庁にも強い憤りを覚える。
結局、気象庁が3県とも「10メートル以上」と高さ予想を修正したのは3時31分。大津波が襲ったあとだった。
「あのときに水圧計を重視していたら・・・・・」
防災関係の研究者らでつくる環境防災総合政策研究機構の理事、岡田弘(おかだ ひろむ)が言う。
「死者不明者約1万9千人のうち、1万人が助かったと思います」
これって、馬鹿野郎ではないですか!
「あんなに高い津波が来るって分かっていれば、みんなも逃げてくれただろうに」
と思っている人は少なくない。3メートルの津波だとラジオで聞いたから、自宅の階上に登っておけばいいだろうと思って命を落とした人も多い。これは天災ではなくて人災以外の何物でもない。

 では何故、こうしたあり得ないことが起きたのだろうか。それは、僕などがここで中途半端に語るより、「プロメテウスの罠」を読んでもらった方がいいのだが、要するにみんな無責任で、それぞれの立場から自分の保身のことばかり考えていて、プライドやエリート意識に邪魔されて、肝心の国民のことはそっちのけだったからである。
 僕は本当にがっかりした。まさに「ピーター・グライムズ」のevilがこの国を支配している。この国は、僕達国民を守ってくれる気はこれっぽっちもないのだ。もう彼らを信じてはいけない。自分たちの命は、自分たちで守らなければいけないのだと強く思った。



 同時に、僕達国民の側にも、少しずつ罪があるとも思った。これらの罪を政府や東電になすりつけるだけで終わってしまったら、この国はたぶん何も変わらない。僕達の自覚も変えなければならない。僕達は、“愚かであることは罪である”いう新しい自覚を持たなければならない。
 たとえば、地方自治体は原発を誘致することで少なからぬお金をもらっていた。それで自治体も地域の人たちもうるおっていたことは事実なのだ。でも、「ただほど恐いモノはない」という言葉があるでしょう。お金を受け取って原発に依存する自治体になるということの恐さを、誰もがこれまで全く感じなかったとすれば、それは厳しく言えば良心の欠如であるとはいえないか。原発を受け容れたということは、そのリスクも引き受けるということではなかったか。だったら、そのリスクの可能性について、自治体はノーチェックでいてよかったのか。
 そして、こうして福島第一原発のような事故が起きてしまった時、自治体は全く何の罪の意識も感じないで、全て国や東電のせいにしていていいのだろうか。いや、僕たち国民ひとりひとりだって、本当に“ただの被害者”だったのか?無関心であることによって、加害者たり得たという部分が全くなかったと言い切れるのか?

 と、ここまで書くと、もう僕の言いたいことは決まっているのだ。全ては本当は宗教心や道徳心の欠落から来ていることなのだ。人間が、誰も見ていないところで、誰からも命令されたり責められたりしなくても、自らの美学や使命感や人生観に従って行動するためには、やはりなんらかの宗教心が必要なのだ。
 宗教心がないと、人間は、本当に動物のように自らの欲望を満たすことしか考えなくなってしまうからだ。人さえ見ていなければ何をしてもいいし、本当にやるべきことよりも、目先の利益を最優先してしまうのだ。そして、現にそうなっているではないか。日本全国が。

 もし、今回のような災害が起きた時に、それぞれの部署で誰かが、
「自分が批難を浴びてもいいから、これをやるべきだ」
という潔い決断をしたならば、今回起きた様々な人的災害のかなりの部分は回避出来たのではないかと僕は推測する。
 10メートルの津波の予想を出しておいて、結果が2メートルだったら、
「人騒がせな!」
と非難されるかも知れない。だから10メートルの予想を出すことは勇気が要るかも知れない。それによって自分の立場が危うくなるかも知れない。
 でも、人の命をあずかっているという自覚と使命感を本当に持っている人ならば、自らのリスクを背負ってでも10メートルの予想を出したのではないか。そして、結果が2メートルで誰も死ななかったら、仮に非難されてもそれを喜び、本当に10メートルの津波が来て、自分の出した予想で少しでも助かった人がいたら、それこそ、誰も評価してくれなくても自らの喜びとしたのではないか。そんな人が、予想を出す部署にいるべきではなかったか。

 僕達日本人に今一番必要なことは、そうした行動への勇気だ!
それは、マニュアルでがんじがらめにされている日本というシステムの、マニュアルからはずれてindividual個人的に行動する勇気と言ってもいい。KYなんて言ってないで、人からはずれることを恐れずに、自らの信念に従って生きる勇気だ。そして、そうした勇気を持つ人間を賞賛するような社会を作ることだ。

日本は、変わらなければいけないんだ!
日本人は、変わらなければいけないんだ!
みんな、立ち上がれ!



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